会議の終盤、不意に投げかけられたひとこと。
「蛹力(SANAGI-RYOKU)って、つまりアンラーンのことですか?」
言葉が一瞬、宙に浮きました。問いに即座に応じられなかったのは、単に準備が足りなかったからではなく、自分がまだこの言葉を本当に扱いきれていないからだと思いました。
結論をお伝えしますと、アンラーンは手段であり、蛹力は目的だと考えています。そこには、似て非なる質の違いがあるので造語を作りました。では、その違いについて書いていきます。
アンラーン(Unlearn)とは
過去の経験や成功に基づいて形成された思考パターン、行動様式、前提条件を、環境変化に適応するために意識的に手放すプロセス
組織文化とリーダーシップの第一人者であるエドガー・シャイン(Edgar H. Schein)は自著の『組織文化とリーダーシップ』は、次のように述べています。
「新たに学ぶためには、まず“これまでの学び”をアンラーンしなければならない。」
この言葉が示す通り、アンラーンは単なる前提の見直しではなく、変化の前提条件そのものです。なぜなら、組織や個人が過去の成功体験をもとに形成した価値観や行動様式は、「暗黙の前提」として無意識に再生産され、現在の意思決定や学習を制限してしまうからです。
つまり、かつては有効だった思考パターンが、環境変化により時代遅れになっているにもかかわらず、それが「当たり前」として組織文化や習慣に染みついているために、新しい知識や方法論が取り入れられず、変革が機能不全に陥る。だからこそ、アンラーンは「前提を壊す」ことではなく、前提の存在にまず気づき、それを意識的に手放すことで、新しい行動と適応を可能にする準備行為だと言えるのです。
蛹力(Sanagi-Ryoku)とは
Road to Zero
蛹力というのは造語です。そして造語を作った背景をお話します。
研修(学び)の到達点を「蛹(さなぎ)が蝶へと姿を変える変態のプロセス(メタモルフォーゼ)」に重ね合わせたメタファーが用いられることがしばしばあります。しかし私は、最終的に“美しい蝶”になることよりも、何者でもなく、何にでもなれる状態こそが目指すべき地点だと考えて、あえて蛹の状態に注力しています。
この視点の背景には、どこか“どうでもいい人生”を送りたいという、私自身の願望があるように思えます。
※HPにはRoad to Zero for the Nextと記載していますが、現在は for the Next を取り除いています
「どうでもいい」という言葉は、現代ではしばしば、愛の対極にある無関心や投げやりな態度を示すものとして扱われます。けれど、この言葉の奥にある感覚を丁寧に見つめ直してみると、そこには仏教でいう「無執着(むしゅうじゃく)」という静かな知恵と通じる部分があるのではないかと思うのです。
仏教では、私たちの苦しみは「執着」から生まれるとされます。 だからこそ、「どうでもいい」は単なる無関心ではなく、こだわりを手放しても確かなかたちを持たなくとも、なお、今ここに静かに関わり続けられる心のありよう。つまり「無執着」へとつながる感覚だと捉え直すことができます。
それは、「どうなっても構わない」という諦めではなく、「どうなっても揺るがない」という心の柔軟さであり、何者でもなく、何にでもなれるまさに蛹(さなぎ)の状態そのものではないかと考えています。
アンラーンと蛹力の違い
では、冒頭の質問に戻ります:「アンラーン(unlearn)」と「蛹力(SANAGI-RYOKU)」は何が違うのか?
結論は冒頭にお伝えした通りです。目的か手段であるかの違いがありますつまり、アンラーンは蛹力の一部ではあっても、蛹力そのものではないと区別しています。
アンラーンは、「学習された過去の自己」が前提としている価値観や思考様式に意識的に疑問を投げかけ、その必要性や妥当性を見直すことで、自ら手放していくプロセスです。そしてアンラーンは、多くの場合、その先にある“新たな変化”や“環境への適応”を前提としています。つまり、何かを捨て、次の何かに“なっていく”ための手段として捉えています。
蛹力には、その先に蝶を目指すという前提はありません。
蛹の中で起きているのは、決して直線的な変化ではないからです。
実際、幼虫の身体は蛹化の過程でほとんど液状化します。
筋肉も神経も、いったんバラバラに分解されてしまう。
それでも、完全に溶けきらないものが、確かに存在します。
それが「イマジナル・ディスク(Imaginal Discs)」と呼ばれる、成虫の各部位の“設計図”です。
羽や脚、触覚、眼といった蝶の構造は、実はすでに幼虫の体内に機能を持たないまま、静かに埋め込まれている。幼虫が溶けていくその奥で、イマジナル・ディスクは脆さの中にひそやかにとどまり、未来の輪郭を守り続けているのです。
私が「蛹力」と呼んでいるのは、この状態に近いものです。
すべてが一度壊れ、定かでないものに囲まれながらも、必要最低限の核だけを保ちつづけること。目的地のない変容のなかで、それでも崩れずに在り続ける感性のようなものをイメージしています。
未完成であること、
定まらないこと、
かたちを持たないこと
そうした状態を“不完全”として否定するのではなく“完成された不完全”として受け入れることで、どうなっても大丈夫なキャリア(人生)を歩めると考えています。
蛹力とは、どこかへ到達することを無理に設定したり、誰かのようになることを目指さすのではなく、いまここにある未完成な自分を、そのまま肯定して生きるための静かだけど不可欠な力(感性)だと思います。
コメント