Whyから始める難しさ

最近、何かを始めようとすると、まず「それって、なんでやるの?」と聞かれることが増えた気がします。仕事でも、趣味でも、学びでも、「その行動にはどんな意味があるのか」「どんな価値につながるのか」という問いが、かなり早い段階で出てくる。

もちろん、合理性を考えること自体は悪いことではありません。時間も資源も限られている以上、何をやるのか、何をやらないのかを考えることは必要です。ただ最近、少し気になることがあります。それは「意味を先に確定させる態度」が、いつのまにか私たちの行動そのものを鈍らせているのではないか、ということです。

例えば、少し興味が湧いたことがあったとします。ちょっとやってみたいな、くらいの気持ち。でもその瞬間、私たちは反射的にスマートフォンを手に取ります。そして、その分野の第一人者のインタビューを読んだり、YouTubeでトップレベルのプレーや作品を見たり、「この仕事の将来性」みたいな記事を検索したりする。

そうやって、あっという間にその世界の「完成された言葉」や「完成された姿」に触れることができる。するとどうなるか。まだ何も始めていないのに、なぜかその世界を理解したような気分になる。あるいは、その完成度の高さに圧倒されて、「自分には無理だな」と感じてしまう。

つまり、本来であれば時間をかけて体験するはずだったプロセスを、情報だけで一瞬で追体験してしまう。その結果、まだ始まってもいない行動が、どこかで終わった気分になってしまうことがある。

実体験では、スポーツによって得られる成果がこの構造に当てはまると感じています。

例えば、私は子どもの頃バスケットボールが好きでした。でも、なぜバスケットをやっていたのかと聞かれると、実のところ大した理由はありません。兄がやっていたから。友達がみんなやっていたから。そして、私が育った吹田市という地域はたまたまバスケットが盛んで、公園にゴールが多く設置されていました。環境がもろ影響を受けています。

そこに「なぜバスケットをやるのか」という哲学はありませんでした。ただ、周りにボールがあったから、気づいたらやっていた。そういう始まり方です。

その後、中学ではたまたま強いチームでバスケットをすることができたり、高校や大学では、本当に素晴らしい仲間たちと出会うことができて、ただ純粋にその時間が楽しかった。振り返ってみると、私がバスケットを続けていた理由は、その程度のものだったと思います。

ところが就職活動のとき、私はその体験をまるで一本の物語のように語っていました。スポーツから何を学んだのか、リーダーシップとは何か、なぜそれを続けてきたのか。自分でも驚くくらいバスケの物語をつくり、社会へと接続していました。

当時はそれに強く納得していました。でも今振り返ると、あれは就職活動を攻略するために、あとから必死に意味づけした物語だったのかもしれません。
環境があったから始まり、仲間がいたから続いた。ただそれだけの出来事に、後から整った意味を与えていた。
その経験を思い出すと、私はときどき「Whyなんて、案外あてにならないものなのかもしれないな」と、少しだけ可笑しく思うことがあります。

話を戻すと、この考え方を広く知らしめたのがリーダーシップ研究者のサイモン・シネックです。彼は著書『Start with Why』の中で「ゴールデンサークル」というモデルを提示しました。人の行動には What(何をするか)・How(どうやるか)・Why(なぜやるか) の三層構造があり、多くの組織はWhatから説明するが、本当に人を動かすのはWhyである、という考え方です。

この理論の根拠は人間の脳の構造にあります。論理的思考を担う「新皮質」はWhatやHowの説明を処理する領域ですが、意思決定や感情に関わる「大脳辺縁系」はWhyに反応するとされます。つまり、人は論理ではなく共感によって動く。だからこそ「Whyから始めること」が人を動かすのだ、というのが彼の主張です。

ここまでは、とても納得できる話です。

ただ一つだけ、私には引っかかることがあります。
そのWhyは、本当に最初からあるものなのでしょうか。

むしろ多くの場合、人は何かを続けていく中で、ある日ふと振り返ったときに「そういえば自分はなぜこれをやっているのだろう」と言葉にする。大きな失敗をしたときや、長く続けてきたことを振り返ったときに、初めて意味が見えてくる。

つまりWhyというのは、最初から明確に存在しているというより、経験の後に言語化されるものなのかもしれません。その方が自然だと感じてしまいます。

それなのに、私たちはとても早い段階で「あなたのWhyは何ですか」と問われる。就職活動でも、キャリアの話でも。すると人は、本当の答えではなく「求められている答え」を探すようになる。

経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスは、現代の消費社会では「人間の欲求が先に存在するのではなく、生産や広告活動が新たな欲求を生み出すことがある」と指摘しました。つまり、人は内側にある純粋な欲求だけで行動しているわけではなく、社会の中に流通している価値観や言葉、イメージによって「欲しいもの」そのものが形作られていくことがある、というわけです。

そう考えると、私たちが「Why」を探しているつもりで、実は社会の中にある言葉や概念を拾いにいっているだけ、ということもあり得るのかもしれません。

昨日、知人と飲んでいたときに、こんな話になりました。

「SMAPの『世界に一つだけの花』ってあるじゃないですか。
“ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン”。
あれってすごくいい言葉なんだけど、あれを最初から真に受けると、ちょっと違う気もするんですよね」

彼はそんなことを言っていました。

確かに、激しい競争の中で苦しんだ人がたどり着いた境地として聞くと、とても深い言葉です。あるいは、無駄な競争の中で苦しんでいる人にとっては、視点を変える大切なきっかけにもなる。

でも、それがすべての人の答えのように使われてしまうと、それはそれで違う。

そんな話を聞きながら、確かに一理あるなと感じました。

言葉が間違っているのではなく、受け手の経験によって、その言葉の意味は大きく変わる。ある種の“解釈のリテラシー”のようなものに大きく左右されているのだと思います。

だから最近は、あまり難しく考えないようにしています。

まず What。
とにかく何かをやってみる。

そして With Who。
誰と一緒にやるか。

HowやWhyを最初から無理に見つけようとするよりも、むしろ自分が好きな仲間やコミュニティの中に身を置いて、その流れの中で何かを始めてみる。その方が、結果として自然に続いていくことが多い気がしています。

そうやって関わり続けているうちに、ある日ふと振り返ったときに「ああ、これが自分のWhyだったのかもしれない」と思えることがあるかもしれない。
また、何かの目標を設定して、スキルなどの向上を目指すかもしれない。そのWhyや目標もきっと固定されたものではなく、時間とともに少しずつ移ろっていくものなのだと思います。

ただ、これを書いている自分自身が「目的から解放されたい」と思ってこの文章を書いている時点で、すでにかなり目的志向の中にいる。

そういう意味では、私はまだまだ “Whyの奴隷” なんだと、つくづく思う。

足立 潤哉

足立 潤哉

人材育成を生業としている30代後半の管理人が、純粋に“善い”と感じたものを残していくためのブログです。 活動拠点:茨城県つくば市

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