昨日、FC今治高等学校の学校説明会に出席して、教育方針やヴィジョンに更に強く共感しました。同時に、本質を見抜いて課題解決に向けて戦略をデザインする力、仲間を巻き込む力など、圧倒的な差があり、正しい危機感をひしひしと感じる時間となりました。
令和6年。あれから5年間、自らが望んでいる変化と現状の乖離の原因は、コロナ、経済、社会とは全く別のところと繋がっているのは間違いなさそうです。プラトー(Plateau)は台地という意味があり、そこから転じて階段の踊り場のような次のフェーズに向かう停滞状態を意味します。直線上に描いた未来では、時代や情報にあっという間に飲み込まれてしまいます。ここから何をするか、何ができるか、人生というのは予定不調和の方が面白いと言い切れるほど私は強くはないですが、このままで終わるのは真っ平御免といったところは今も昔も変わりません。
圧倒的な経験不足
安宅氏は「知性の核心は知覚にある」というタイトルで、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー論文に見事に知性を説明しています。情報処理の基本構造は「入力→処理→アウトプット」で、これはコンピューターでも人の中枢神経でも変わることはない。それを前提に思考とは、インプットとアウトプットをつなぐこと、そして入力を出力につなぐ能力こそが「知性」であるといいます。その知性の中心に知覚があり、知覚とは端的に言えば、対象のイミを理解する事です。そして知覚は経験から生まれると指摘しています。ここで言いたいことは価値を見出せないことは知覚することができないということです。目の前にどれだけ素晴らしい活動が行われていても、それを受け取る人がそれに価値やイミを見出せないと知覚することができないのです。ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン博士は “What you see is all there is” (世界は)自分の見えているもの(世界)が全てという言葉で、バイアスについて説明していましたが、このことは人生やの仕事の質の部分に密に繋がっていると感じています。
効率性やインプット
テクノロジーの目覚ましい発展により、ひとの労働のパラダイムが大きく変わることは、そう遠い話でもなく、年々強く実感できるほどになっています。例えば、ファミレスの配膳や無人のコンビニ、また銀行のエリア職や一般職の廃止など、枚挙にいとまがないのですが、労働市場や“仕事”の変化は待ったなしで加速していくと容易に想像できます。
その中で「ヒューマンタッチの(人間味のある)仕事」は今後も必要とされると言われていますが、最近その言葉に強く引っ張られすぎていると感じています。人間味のある仕事に就きたいと考えたり、余暇を楽しみたいと思えば思うほど、日々の中で無意識に選択している行動を可能な限り、効率化することが必要だと考えています。また実践と並行して学びも必要です。実践が重要なのは百も承知で、あまりにもインプットが少ないことで実践の選択肢が限定的になってしまっていると思います。それは研修や会議で参加者同士で何のインプットや事前準備をなしに、ブレストをしても目立った成果物が生まれない状況と似ています。この時のインプットは一定の割合で、目的を伴わないもの、もしくは顕在化された課題の解決以外の領域を意図的に選ぶことが大事だと思います。ゴーゴカレーの創業者宮森氏は「発想力は移動距離に比例する」とおっしゃっています。物理的にも学びの領域の観点でも当てはまると思います。
○○感をなくしていきたい
仕事をやっている感を出す人の多くは、人より長く働く傾向にあるのではないでしょうか。清潔感がある人は物理的な清潔さよりも、髪型や衣類などの見えるところで、相手に知覚されているのではないでしょうか。実際やっている人は、この「〇〇感」が極めて少ないと思えてきました。派手さはないのですが、それは必ず実在します。仕事をやっている人は、アウトカムがしっかり残っていますし、清潔な人は物理的にも(は)清潔です。多分、「〇〇感」は圧倒的な行動の後に、否応なしで溢れてくるものなんではないでしょうか。加えて言いますと、それは相手が決めることで自分で決めるものではないことです。だからこそ、相手にどう見られているかを詮索しながら行動してしまうほど浅はかなものはないのでしょう。
このプラトーを抜け出し、次の台地へ足を踏み込みたければ、まだまだ実践と失敗の量が足りていないと書けば書くほどに思えました。
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