現実を素手で触れているという感覚

学び・考え方

タイトルの言葉は体験や失敗の文脈の話や、何かを成し遂げた多くの人の話でも聞く言葉です。それをとても大事だと頭では分かっているが、日常は逆行しているとさえ感じてしまう場面も少なくなく、焦りすら感じている今日この頃です。
評論家で、批判誌『PLANETS』の編集長である宇野常寛氏の著書『遅いインターネット』を読み終えて、問題提起の角度と結論付けが多くの示唆を富むものとなってあり、とても良い読書であったという充実感があるので、書き残しておきます。

シンプルな因果関係を求めすぎではないか

ポストコロナ時代のニューノーマルな暮らしに、気付けば移行しているかと思います。現在の働き方、人間関係、物価などのほとんどが、私の人生の大半を過ごした平成のそれらとは大きく変化していることに気づきます。この曖昧で複雑な世の中は更に加速していくことには一種の覚悟や諦めのようなものが必要になってきます。
私の生業は人材育成を中心としていて、組織の中にある課題を人にまつわることから解決することです。最近はもっぱら、専門領域の「リーダーシップ」に「ウェルビーイング」を掛け合わせてプログラムを開発して実施しているのですが、因果関係について疑問を抱く方々に違和感が強くなっています。私の研修プログラムに対する根本的なスタンスは、研修で課題が解決するかはやってみないと分からないところもあります。ですが、参加者の中から自発的に変化を起こす人が出てくることを信じて、一定のリスクを一緒に背負いながら実施してみませんか?ということです。今の世の中を自立して生きているであればあるほど、不完全な私のスタンスに一定の評価と共感を持っていただいている感覚があります。

他人の物語から自分の物語へ

遅いインターネットの中に「他人の物語に感情移入することよりも、自分の物語を語る快楽が強いことに気づいてしまった」という一文があり、ここに共感しました。これは研修プログラムにも繋がることで、参加者は誰も(本質的には)正解を求めていない。自分のストーリーに合った情報なのか、もしくは自分の物語をつくることに適した研修であるかに興味関心が強くあることです。
その一方で、正解を教えてほしいと矛盾した欲求があるのは、現代の社会に強く結びついていると思います。例えば、ネット上に更新され続けるトピックに意見を述べるとき、もしくはそれについて考えると時に、自分で考える前に問題そのものではなく「誰が」発信しているのか、メインの潮流はどこなのかを最初に確認してしまう。このプロセス抜きでは発信できな状態ではないかと推測します。つまり考えているのではなく、誰の意見、どの潮流に乗るかを判断しているだけになってしまいます。
これは私にも当てはまり、例えばWell-Beingの文脈であれば、エド・ディーナー博士、マーティン・セリグマン博士、またGallup社の調査などを組み合わせて、その科学的根拠に対して疑いもなくプログラムに組み込んでしまっていることがあります。生活的概念(ヴィゴツキー博士の研究:生活の中で自然発生的に獲得する非体系的な概念)、つまり自分自身が実際に何を経験して、何を感じて、事実に対してどのような解釈をしているかを明言できる人になれるかが40代に突入までの大事な分岐点となります。

素手で掴みにいく大切さ

いま必要なのは媒介なく個人と世界とを直接つなぎ、それに素手で触れているという実感を、自分の物語を、日常の領域で成立させることなのだ。


現代文化を「日常−非日常」と「自分の物語−他人の物語」の2軸を交差させて四象限に層別した時に、「自分の物語×日常」の領域以外は既に他のサービス(ビジネス)で押さえられているという説明があったのですが、その通りだと思います。この現代社会において「自分の物語×日常」の領域でビジネスというか日々を過ごしていこうと決心しました。
日常に着地したまま個人が世界に接続すること。外部に越境することなく内部に潜ること。世界に素手で触れられる幻想に溺れることなく受け止めていくキャリアを歩み直そうと思えました。移動距離と触れ合う人数を増やしかないと、生き残れない危機感と同時そっちの方が自分に合っている感覚が交錯する時間となりました。読書一つとっても同じ領域のものだけではなく、意図的に散らして知の探索を続けないといけないですね。

足立 潤哉

足立 潤哉

人材育成を生業としている30代後半の管理人が、純粋に“善い”と感じたものを残していくためのブログです。 活動拠点:茨城県つくば市

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