「Well-being」と「Well-doing」

学び・考え方

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、人間の営みにはすべて目的があり、その最終目的は「eudaimonia(ユーダイモニア)」、すなわち「幸福」にあると述べました。幸福とは、単なる快楽や成功ではなく、人間に固有の機能である理性ある魂の活動を、徳に即して十全に果たすこと、これこそが「善く生きる」ことであり、「幸福」の本質だと考えたのです。
この幸福とは、気分がいいとか、一時的にうまくいったということではありません。アリストテレスが語ったのは、人生を通して「人としてどう生きるか」を問い、理性と徳にそって人生(時間)をまっとうに使いきること。それは、誰に評価されなくても、他人と比べる必要もなく、自分の中で納得できる「善く生きた」と思える感覚に近いかもしれません。現代の「ウェルビーイング」という言葉は、2000年以上前からの哲学の思想が原点であります。

“Well-doing”という概念

日本を代表する政治思想家の丸山眞男氏の『日本の思想』の中に『であることとすること』というエッセイがあります。日本国憲法第十二条の例にであること「Being」とすること「Doing」の関係性を見事に説明しています。


日本国憲法 第十二条(自由及び権利の保持義務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
また、国民は、これを濫用してはならず、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法第十二条に込められた精神を、「Well-being(であること)を守るためには、私たち一人ひとりがWell-doing(すること)として努力し続けなければならない」と読み解きました。つまり、「自由に在る」ことは自然には続かず、「自由であろうとする行為」によって支えられるべきものだということです。私たちが「ありたい未来」を描くとき、多くの場合、そこに浮かぶのは“状態”です。たとえば、「プロサッカー選手」「料理人」「保育士」といった、ある立場や役割としての姿です。しかしその“状態”は、決して静的なものではなく、日々の行為(Doing)の積み重ねによってのみ成立し、維持されるものです。

状態を夢見ることは大切です。ただし同時に、その状態を支える行為の継続なくして、望む在り方は実現し得ない。この視点を持つことが、未来への本質的な一歩となるのではないでしょうか。

目的と行為

Well-doingとWell-beingの関係性が腑に落ちると、次に浮かぶのは「では、私たちはどのような行為を選ぶべきなのか?」という問いです。ありたい未来(Well-being)を描くことは、その実現に向けた行為(Well-doing)を必要とします。しかし現代社会では、「行為」はしばしば“目的の達成のための手段”としてのみ扱われがちです。たとえば高校受験を控えた中学生であれば、試験科目を効率的に学び、出題頻度の高い問題に的を絞って備えるのが「正しい行為」とされます。進学という目的(目標の意味も含む)が定まっている以上、それに適した手段を選ぶこの構図はごく自然に受け入れられているように見えます。

では、Well-doingとは常に目的に従属していなければならないのでしょうか?この問いに対して強い示唆を与えてくれるのが、ドイツ出身の政治哲学者ハンナ・アレントです。彼女の代表作『人間の条件』には、次のような一文があります。


目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう。

アレントは、ナチス政権下のユダヤ人迫害という歴史的悲劇を、自らの体験として受け止めたうえで、「目的が手段を正当化する」という思考の危うさに鋭く警鐘を鳴らしました。目的達成に向かうあまり、行為の倫理や人間の尊厳が見失われてしまったとき、何が起こるのか。この問いは、今の時代にも重く響きます。私たちが何かを行おうとするとき、必ず「それは何のためにやるのか?」という問いがセットでついてきます。けれどその問いは、あまりに目的合理的であるがゆえに、行為そのものの価値や喜びを奪ってしまうこともあるのではないでしょうか。

私には小さな子どもがいるのですが、エレベーターのボタンを押したがったり、道端で石やどんぐりを夢中で拾い集めたりする姿を見ていると、改めて気づかされるのです。同じ「行為」であっても、それが「何かのために行う」のではなく、「ただ行いたいから行う」ものであるとき、それはまったく異なる質感を持っているということに。私たちは、「目的のための行為」に生きすぎて、意味のないことや“無駄なこと”をあえて行うことの難しさを感じてはいないでしょうか。けれど、Well-doingとは、本来「目的に奉仕する行為」だけを意味するものではなく、行為そのものに内在する価値や自由、創造性をも含んでいるはずです。

遊びを持つこと

「無駄なこと」と聞くと、私たちはどこかでネガティブな響きを感じてしまいます。けれど、その解像度を少しだけ上げてみると、それは「他者や社会に直接役立ってはいないけれど、自分にとっては確かな意味があるもの」だと言い換えることができます。それは、一見すると時間の浪費に見えたり、他人には理解されなかったりするかもしれません。でもその中には、「私はこれが好きだ」「この時間が私を取り戻してくれる」といった自己との深いつながりが宿っている。そうした活動は、「趣味」や「遊び」と呼ばれることが多いでしょう。
私が今、関心を持っているのは、大人になってからも、自分の意思で“遊び”や“無駄”を生み出すことは可能か?という問いです。社会的役割や成果、効率に覆われた日常の中で、意味を持ちすぎない行為を、自ら選び取り内在化することはできるのか。遊びとは、目的から自由であることです。そしてその自由の中にこそ、「本当に大切なもの」や「自分」を垣間見ることができるかもしれません。

だからこそ、問い直したいのです。
「私はいま、何のためでもない行為を、心から楽しんでいるか?」
そして同時に思うのです。このような記事を書いていることが、この概念に囚われているんだなって。この考えや問いを一旦かっこに入れながら、GWは家族と戯れてきます。

足立 潤哉

足立 潤哉

人材育成を生業としている30代後半の管理人が、純粋に“善い”と感じたものを残していくためのブログです。 活動拠点:茨城県つくば市

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